浜田広介とひろすけ童話

浜田広介

写真右 浜田広介

写真左 浜田トク


明治26年(1893)年山形県東置賜郡屋代村一本柳(現高畠町)に浜田為助の長男として生まれる。

山形県米沢中学校(現米沢興譲館高等学校)を経て、早稲田大学高等予科に入学。その年に短編小説『零落』が「万朝報」の懸賞小説に入選したのを最初として7回の入選を数え、「途暗し」では北村透谷賞を受賞している。また、最初の童話作品「黄金の稲束」が大阪朝日新聞の懸賞に一等入選、選者の巌谷小波氏よりその善意性を激賞される。以後、善意の精神を創作の拠とする。

関東大震災後、文筆生活に入る。空想と実相とを要素とした『ひろすけ童話』の中には、素朴で純情な郷土性と、母のふところにも似た温かさと優しさが漂い、美しい芸術作品として今なお読み継がれている。「黄金の稲束」発表以後、50余年の作品は、1,000編にも及び、「むく鳥の夢」「泣いた赤おに」「りゅうの目のなみだ」など、珠玉の名作を残した。それらの作品は、歳月を経た今日もなお、『ひろすけ童話』に接した人々の中に、あるいはまた、子どもらのもっとも身近な「文学」として、脈々と生き続けている。

その功績に対して、昭和15(1940)年に児童文化賞、昭和17(1942)年に野間文芸奨励賞、昭和28(1953)年には、文部大臣芸能賞が授与された。また、昭和30(1955)年には、日本児童文芸家協会の初代理事長となり、次いで初代会長に就任した。

昭和39(1964)年、郷土高畠のひろすけ会が中心となり、古希を祝い、鳩峰高原に「むく鳥の夢」の童話碑、昭和40年には母校屋代小学校校庭に「道ばたの石」の碑が建立された。昭和47(1973)年に11月、高畠町では初めての名誉町民に推挙され、高畠町役場庁舎前庭には「回顧の碑」が建立された。

深い信頼と愛情、そして善意に満ちた数多くの作品を残し、昭和48(1973)年11月17日、永眠した。享年80歳。

1893(明治26)年
5月25日、山形県東置賜郡屋代村大字一本柳(現高畠町)に、農業浜田為助・やすの長男として生まれる。本名廣助。
1914(大正3)年 21歳
米沢中学校卒業。早稲田大学高等予科入学。
1917(大正6)年 24歳
「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話に「黄金の稲束」が一等入選。
これを機に児童雑誌「良友」に寄稿。
1918(大正7)年 25歳
「呼子鳥」を「良友」に発表。早稲田大学英文科卒業後、12月コドモ社入社。「良友」の編集者となる。
1919(大正8)年 26歳
「良友」を編集しながら、同誌に「椋鳥の夢」「光の星」「花びらの旅」「お月様と鯉の子」「一つの願い」などを次々と発表。翌年12月コドモ社を退社。
1921(大正10)年 28歳
8月、最初の童話集『椋鳥の夢』新生社より刊行。
1923(大正12)年 30歳
「黒いきこりと白いきこり」「龍の目の涙」を発表。実業之日本社で「幼年之友」の編集をするが、関東大震災を機に退社。以後、文筆1本で生きる決意をする。
1928(昭和3)年 35歳
友人の妹、渡部トクと結婚。「5匹のやもり」を発表
1933(昭和8)年 40歳
「泣いた赤おに」を書く。
1955(昭和30)年 62歳
日本児童文芸家協会の初代理事長に推される。10年後会長となる。
1964(昭和39)年 71歳
鳩峰高原に「むくどりの碑」建つ。
1966年(昭和41)年 73歳
5月、母校屋代小学校に「道ばたの石の碑」建つ。
1972(昭和47)年 79歳
高畠町名誉町民に顕彰され、庁舎前に「回顧の碑」建つ。
1973年(昭和48)年 80歳
11月17日永眠。法名 廣徳院殿童愛錦謡居士